人生の分かりやすさ
全く更新をしてなかったことを棚に上げ、いきなり記事を書きます。
表題の意味は「世の中の人の多くは、そんなに物事を考えるのに思考も時間も使うことが出来ない」という枕さんからの批判を込めています。
例えば...........
・就職活動の時に、「なんで●●学部なのにその系統の仕事に応募しなかったの?」
例:法学部出身⇒法務とかに応募や、その関係を探していない人間への質問
ということを新卒の時に経験し、顔には出せなかったものの「法学部に進んだ人間が全員弁護士や法務部に就職できるとでも、この人事のヤツは本気で思っているのだろうか?」と思ったものです。
もちろん、上記の例に出てきた質問は就職活動ならではの通過儀礼のようなもので、向こうもの特に考えをもって質問をしているわけではないのかもしれません(もしこれを読む大学生が居れば、心に留めておいてほしい。人事の採用担当者によって“採用時の対応力”に差があるということを。上手な質問で相手を見極めることが出来る人もいれば、あまりにも不慣れで相手の本質を引き出せないようなことを質問してくる人もいる)。
ただ、ネットニュースの記事や周りの人間の話を聞いていると、世の中の人の論理の帰結があまりにも単純に思えて仕方がないのです。
例えばこの事件について、会社の上司は「犯人は死刑にすべき」ということを言っていました。
私が「一体何が犯人を凶行に走らせたのか」と言うと、「何か理由があるからといって許されるものでもない」と、それ以上の話にはならなかったのです。
上司が言ったことはそれはそれで正しいことです。何があっても許されることではない。
ただ、その物言いに「犯人はこの世の人間ではない」というような断絶を感じました。
私からすれば「もしこの犯人と同じ人生を歩んだ時に、自分が殺人を犯さない保証がどこにあるのか」ということを理解しなければならないとも思います。
「○○ということが起きた⇒ではそれは□□ということで証明終了!」という単純な論理で世の中の多くの人は物事を判断しているのだとしたら、おそらく私はそのスピードについていけるタイプではないでしょう。
そういう風に、余計な物事を考えず生きていけるのならそのほうがおそらく圧倒的に楽だと思います。私のように常に余計なことを考えていると、判断が遅れたり玉虫色の意見になるのかもしれません。
答えは出ないですが、分かりやすさだけを求めることが悪いわけではありません。
しかし時には、そんな簡単な結論が出るわけではないことも自覚しなければ物事を理解することにはつながらないでしょう。
特に、もし多様性を尊重する社会を作りたいなら、その思考は必要なはずです。
いつか電池がきれるまで。
ウェブリブログからの引っ越し
以前「聖者たちの宴」という
暇を持て余して戯言をのたまうブログ
をやっていた枕不倫という存在。
seijatachinoutage.at.webry.info
前前前世、じゃなくて全然更新をしてなかったので
新たにブログ解説をすることにしました。
まぁスタンスは何一つ変わらずでいきます。